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野井神社
ぬいじんじゃ
島根県大田市長久町長久イ59
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島根県大田市にある。
JR大田市駅の北西1Kmの鳥井に鎮座。
9号線から三瓶川を越えて北へ真直ぐに進むと、
道路の西側に境内がある。
南面した境内は、狭い小道に面して鳥居が立ち、
鳥居の正面に拝殿。拝殿の後方に、形の良い本殿。
境内の右側に、拝殿と同じような建物があるが、
どうやら神楽殿らしい。
その神楽殿と拝殿の中央に、境内社がある。
さらに、神楽殿の右側、境内の隅には新しい鳥居のある境内社。
境内社の詳細は分からないが、
『神国島根』には、境内社として、
琴平社、若宮社、稲成社、大元社が記されている。
社伝によると、人皇五十代桓武天皇の御宇、
延暦十一年壬申年三月十五日、
石見国造の紀氏が、伊勢国安濃郡より奉遷したのが当社のはじめ。
三代実録によると、貞観十三年二月正二位を授けられた古社。
当社鎮座地も、石見国の安濃郡であり、
伊勢国安濃郡の紀氏と、石見国造は同属。
紀伊国造とともに、神皇産靈神を祖とする氏族らしい。
当地には、旱魃にも枯れない清泉が存在したことから野井と呼ぶ。
この泉を中心に、原始林の開拓がすすみ、切り開いたことから、
鎮座地を、入りとも云い、当社は切り入りの宮とも称したといい、
国造が居を構えた場所。
その後、国造は邑智郡吾郷邑に遷ったため、
当社を勧請して天津神社となったとも。
式内社・野井神社に比定されている神社だが、
当地には、郷社・八幡宮という大きなお宮が存在し、
当社は、小社であったため、以前は八幡宮を式内社とする説もあった。
その後、野井神社と八幡宮を合祀し、現在の野井神社となったので、
結果的には、正しい式内社となったようだ。
神紋は、『神国島根』『式内社調査報告』ともに、
「抱稲穂」と書かれていたが、確認できなかった。
本殿の屋根には、菊・桐・巴の3種の紋があり、
そのどれかが当社の神紋だろうと油断して、
拝殿内を確かめるのを忘れていた。残念。
というわけで、神紋は「抱稲穂」に間違いないだろうが、
正確な図案が分からない。
社域 |
拝殿 | 境内中央の境内社 | 神楽殿 |
社殿 |
本殿 | 本殿 | 境内右端の境内社 |
野井神社「由緒」
社伝には、桓武御宇延暦十一年(七九二)九月十五日伊勢安濃郡八幡を遷す、と「頭註抄」を引用しており、貞観年間授位も記されておる。これはこれとして次の「此地に天然の泉ありて、旱天にも渇せず、霖雨にも濁らずして清水湧出す。此泉を根拠地として、原始林の切り倒しをはじめ、耕地を開墾す。依て此地を入りと云い、社を切り入りの宮と称す。此地方で最初に開けた処にして、国造の居館の地か、石見国造はその後邑智郡吾郷村に移れりという。その地にある天津神社は当社を遷したるものと云う。吾郷は安濃郡の義にて近くに野井の地名もあり云々」とあるが、現在の野井神社は、明治四十一年七月旧村社野井神社と明治六年以来の郷社、入山八幡宮を合併し、郷社野井神社と称し、さらに明治四十一年十月、字用田(もちだ)鎮座の亀山八幡宮を合併し、さらに明治四十四年一月、山王神社(祭神大山祇神)と王子神社(天照皇大神)を合祀した。このため由緒の重なった点もあると思われる。この点社伝に「元亀年間、源朝臣小笠原与次郎長旌、同上野介長実等大いに崇敬し、社殿の再建をなす。慶長五年(一六〇〇)毛利輝元当国の守護たりし時社殿再建」等の記録は八幡宮関係のものと思われる。神社周辺に、御供田・天神分・卜定田(うらべた)等の地名が残っている。明治四十一年十一月神饌幣帛供進の神社に指定された。−『平成祭データ』− |