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内宮
ないくう
岡山県岡山市南区浜野1−3−8
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岡山県岡山市にある。
岡山駅の南東3Kmほどの浜野に鎮座。
旭川の西側を走る道の側に境内がある。
境内入口は東向き。
製紙工場の横に鳥居が建ち、
数十mの参道が西へ延びている。
鳥居の右手には
「伊勢皇大神宮御聖跡 内宮」と書かれた案内。
参道の先にある神門の額には「内宮」と書かれている。
神門をくぐると境内。
参拝日は、曇天の正月二日。
どんよりとして空で、境内もやや暗め。
境内左手に授与所があり、御守り等を売っている。
参拝終了後に御朱印をいただこうと思っていたが、
参拝している間に忘れてしまい、御朱印はなし。
以前は、御朱印目当てに参拝することも多かったが、
早朝日出前(つまり社務所が開く前)の
参拝を好むようになってから、
御朱印に対する執着が薄れてきたようだ。
ということで、御朱印を
いただく/いただかない/いただけない
は、運というか縁なのだ。と思う。
境内の奥には拝殿があり
拝殿の前には百度石が二つ立っている。
拝殿の後方には神明造の本殿がある。
社伝によると、
第十代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命により創建。
天照大神は、崇神天皇六年までは、天皇の大殿に祀られていたが、
その神勢を畏れ、天照大神および草薙剣を
豊鋤入姫命に託して、大和国笠縫の邑に祀った。
その後、丹波国吉佐宮、大和国伊豆加志本宮、
紀伊国奈久佐濱宮を経て、
五十四年、当社(吉備国名方宮)へと遷り、当地に四年鎮座した後、
大和国三輪の御諸の嶺の上の宮へと移された。
ということで、当社を内宮とし、市番町の伊勢神社を外宮として、
式内社・伊勢神社の論社とする説もある。
元伊勢なので神紋は伊勢神宮と同じ花菱紋だ。
境内社として、本殿の後方に二社。
右後方に稲荷神社があり、左後方には天満宮。
参道入口 |
参道 | 神門 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
天満宮 | 稲荷社 |
内宮
−境内案内板− 内宮由緒略記
天照大神は、もと、皇居の内にお祀りされていましたが、第十代崇神天皇の御代に至り、「神威を畏れたまひて共に住みたまふに安からず。」として、皇居と神居とが別けられることになりました。そこで、天照大神は、崇神天皇の皇女豊鍬入姫命を御杖代として、大和国笠縫邑に遷し祭られ、やがて、丹波国・倭国・木ノ国を経て、崇神天皇五十四年(紀元全四十四年)に、吉備国名方浜へ御遷幸になられました。まさに、今より二千余年にも及ぶ昔のことで、これが、現在岡山市浜野の地に鎮座する内宮の創始であります。そして、その後、天照大神は、さらに大和を中心にいろいろな地方を経て、第十一代垂仁天皇二十六年(紀元前四年)に、伊勢国度会郡宇治の里へ御遷幸になられ、その地を永遠の宮地として御鎮座になることと定まりました。−『平成祭データ』− |
【 内宮 (岡山市) 】