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素盞嗚神社
すさのおじんじゃ
広島県福山市新市町大字戸手天王1−1
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式内社 備後國深津郡 須佐能袁能神社 |
広島県新市町戸手にある。
JR上戸手駅のそば。
おなじく備後国一宮の吉備津神社は、
当社の北西、2・3Kmの場所にある。
線路と狭い道路に挟まれた、東西に長い境内。
東側の鳥居から、隋神門・舞殿・拝殿・幣殿・本殿と並んでいる。
社伝によると、天武天皇の御宇(672〜686)の創祀。
醍醐天皇の御宇(897〜930)に再興されたという。
当地は、江ノ熊・江隈・疫隈などとも呼ばれていた地で、
当社は、「備後国風土記」にある「疫隈國社」である。
蘇民将来伝説の発祥の地であり、全国祇園社のもと。
北海にいた武塔神が、
南海の神の娘のもとへ通う時、日暮れてしまい、
当地で宿を求めた。
当地には、将来兄弟が居り、
弟の将来は豊かであったが、宿を与えず、
兄の蘇民将来は、貧しかったけれども、宿を貸す。
武塔神は、南海から八柱の御子を率いての帰路、
当地で、報復を行うことになるが、
蘇民将来の子孫には、腰に茅の輪を付させて目印とし、免れたという。
武塔神は、その時、「吾は速須佐雄の神なり」と名のったという。
当地が通過点だとすると、
北海は日本海、南海は瀬戸内か太平洋になる。
やはり素盞嗚尊は出雲の神なのだろうか。
ちなみに、かって境内に早苗松という三株が一所に生えた老松があり、
巨旦将来(蘇民将来)の屋敷跡だと伝えられていた。
社殿左の境内社は、蘇民神社と疱瘡神社。
右には、天満宮がある。
天満宮は、明治までは本地堂と呼ばれ、聖観音を祀っていた。
鳥居・隋神門をくぐり、長い参道を西へ進むと、舞殿がある。
舞殿後方に、拝殿・幣殿・本殿。
本殿は入母屋造で、なかなか美しい。
東西に長い境内なので、朝夕の陽の動きによって、
雰囲気が変化して面白い。
東側の境内入口 | 随神門 |
随神門から社殿 | 社殿から随神門 |
境内・社殿 |
拝殿 | 境内右手の相方城城門? |
本殿 |
本殿左にある疱瘡社・蘇民社 | 本殿右にある天満宮 |
素盞嗚神社
『北海に坐します武塔神……南海に出でまし
しに日暮れぬ。その所に将来二人ありき、兄
の蘇民将来、甚く貧しく弟の巨旦将来、富
みて屋倉一百ありき……(備後風土記逸文)より』この附近一帯を疫の隈という。 蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地として、文 献上最古の記録を残すほか「疫の隈国社」として 延喜式神明帳にみえる古い歴史をもっている。 武塔天神は祇園牛頭天王とも称されるほか 建速須佐之男(古事記)(日本書紀では素盞嗚尊) と記された出雲神話の祖である。 明治初期までの神仏習合の一時期「早苗山 天龍院天王寺祇園社」と呼ばれた事もあり、早苗の 松の伝承を残した。 本社は備後三祇園の一社で七月の祇園 祭りは備後地方の夏祭りとして有名であり 祭り終了日の深夜、吉備津神社よりの「無言 神事」が今も行われている。 建造物のうち道路側の楼門は相方城(天正 年間・一五八〇年ごろ)の城門を移築しており当時 の建築様式を知るに貴重である。 『茅の輪くぐり』(旧暦六月三十日、直径約二メートル の茅の輪をつくり無病息災・厄除けを願って 茅の輪をくぐる行事をいう) <本殿>…入母屋造・千鳥破風・桧皮葺 <拝殿>…入母屋造・向拝付唐破風 <西城門>…二重楼門 <鳥居>…明神鳥居 (境内に県天然記念物指定の大スギがあったが先年枯死する) −境内案内より− |