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高野神社
たかのじんじゃ
岡山県津山市二宮601

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式内社 美作國苫東郡 高野神社 |
岡山県津山市二宮にあり、美作二宮である。
津山駅から西へ3Kmほど。院庄駅から東へ1Km。
東西に流れる吉井川の北岸、宮下橋のそばにある。
二宮郵便局近くに鳥居があり、長い参道が道路に沿って西へ延び、
神門から階段を登ると境内。社殿は南面して鎮座している。
現在は、「タカノ」と呼ばれているが、
昔は、「カウヤ」と称され、真言宗との関連が深い社であった。
社伝によると、安閑天皇二年十一月の勧請。
「二宮」と称し、式内社・高野神社である。
今昔物語には、
「今は昔、美作の国に中参・高野と申す神在します。
其の体は、中参は猿、高野は蛇にてぞ在しましける。」
とあり、毎年生贄を供えていたとの伝承がある。
社地の裏山の古墳群には、蛇塚があるそうだ。
中参は中山神社で、境内に猿神を祀っている。
当社は吉井川そばにある水神が本来の祭祀と考えられる。
川の氾濫に対する畏怖が、蛇神信仰となったものか。
あるいは、沼地であった津山盆地の干拓によって出来た水田の神か。
相殿に祀られているのは、中山神社祭神と総社宮祭神。
当社を含めて、美作三大社と呼ばれており、
どの社も立派な社殿をそなえている。
道路に沿って、鳥居から西へ参道が延び、神門がある。
階段上に広い境内があり、大きな社殿がある。
参道の東に、宇那堤森と呼ばれる旧跡があり、椋の巨木があるらしい。
万葉集に「真鳥すむ卯名手の森の管の根を衣にかきつけ著せん児もがな」とある。
境内社が幾つかあるが、
境内左端に、拝殿を備えた立派な御先神社(專女神)があった。
境内社は、『明治神社誌料』には、以下の名が記されている。
御先神社、国司神社、八幡神社、下関神社、龍神社、徳王神社、広瀬神社、粟島神社
参道の木、宇那堤森か |
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参道入口の鳥居 ![]() | 神門 ![]() |
境内社殿 |
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御先神社社殿 ![]() | 高野神社社殿 ![]() |
御先神社本殿 ![]() | 高野神社本殿 ![]() |
神楽殿 ![]() | 境内社 ![]() | 境内社 ![]() |
高野神社
−境内案内− 謹んで案ずるに,我等の氏神高野神社発祥の地は吉井川原の碬馭盧岩と伝えられま す。 遠い祖先は此処を磐境として敬虔な祭祀を行っていたものと思はれます。 今から約千五百年の昔安閑天皇二年(五三四年)に山川の秀麗にして清浄な此の地を 選んで社殿を営み神霊をお祀りしました。 御神威は年と共にお栄えになり,早くから美作総鎮守三大社の一つとして,広く官民 大衆の尊信するところとなったのであります。 また朝廷におかせられても,すでに平安時代に高い神位に進められ,延喜式内社とし て特別の崇敬を捧げられ,降って武家の世となってからも源頼朝,山名時治,毛利元 就,小早川隆景等の諸将が社殿の造営や祭資の献納などにつとめ,森厳優雅な社叢宇 那提森の雅名と共に,広く世にたたえられるようになりました。 そして戦国衰頽のあとをうけて美作国主となった森氏は,社領を寄進し社殿を修造し て祭祀を盛んにし,松平氏もまた年々祭資を供進し,現在の社殿は,寛文三年(一六 六三年)森長継によって修造されたもので,県の重要文化財に指定されています。 −『平成祭データ』− |
