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宗形神社
むなかたじんじゃ
岡山県赤磐市是里3235  Zenrin Data Com Maps display !!


丸に三つ巴

式内社 備前國赤坂郡 宗形神社
旧県社

御祭神
多紀理毘賣命 市寸嶋比賣命 田寸津比賣命
合祀
大己貴命 大日孁命 豊宇気比賣命 須佐之男命 菅原神
伊邪那美命 速玉男命 事解男之命 大山咋命

岡山県赤磐市。
旧吉井町役場から西へ4Kmほどの吉備高原にある。
さらに2Km近く西へ行くと、「血洗いの滝」と呼ばれる、
岡山では有名な滝があるらしい。
当社の周囲から中国自然歩道が西へ延びているようだ。

社伝によると、崇神天皇の御代に勧請された神社。
仁徳天皇が黒比賣を当社へ迎え、
やまかたに、まけるあをなもきひひとゝ、ともにしつめはたぬしくもあるか
と詠んだとも云われている。

当社の西にある「血洗いの滝」は、
素盞嗚尊がヤマタノオロチを退治した後、
剣についた血を洗った滝だという。

祭神は、宗像三女神
明治四十三年に以下の神々を合祀した。

神峰神社(大己貴命)、神峰伊勢神社(大日孁命豊宇気比賣命)、
剣拔神社・素盞嗚神社(須佐之男命)、天満宮(菅原神)、
熊山神社・熊野神社(伊邪那美命速玉男命事解男之命)、
日吉神社(大山咋命)。

本殿の扉に、丸に三巴がついていた。多分、これが神紋。

境内は鬱蒼とした森の中。ちょっと怖い感じだった。

境内入口は、朝日を浴びて輝いていたが、参道は暗かった。
参道途中に神門があり、奥に社殿。
本殿は三間流造。


境内入口

参道

神門

社殿

社殿

本殿

拝殿

境内は想像よりも広かった。
境内左手に3つの境内社。この山中に香椎神社があるのが印象的。
右手にも幾つかの境内社と石碑が祀られている。
「瀧神社遥拝所」と書かれた石碑は、血洗い滝の遥拝だろうか。


境内左手の境内社、稲荷神社

香椎神社、小祠、武内宿祢神社

社殿右手の境内社

石碑、瀧神社、神峯社遥拝

 創立年代を詳らかにすることはできないが、神 社明細書(昭和二十七年)には「當社は人皇十代崇神天皇の 御宇勧請にして式内の舊社なり。人皇六代仁徳天皇吉備國 海部直女黒比賣を寵し、本國山方に幸行さるゝや黒比賣帝 を當社に奉迎し方物を採り、歓饗し奉る。帝欣然御製に”や まかたに、まけるあをなもきひひとゝ、ともにしつめはたぬ しくもあるか”と詠し給へり。是より以降、今に至る迄諸 人擧て山方の大宮と稱する所以なり。當時、帝より宗形神 社神領として神地三、四町、神戸若干を附置かる。依て今 に其地名を京免及神戸と呼ぶ。後世慶長八年池田忠繼公、 備前に封せらるゝや深く當社を崇敬し、同九年検地の節、 本村の内中田二反、高三石貳斗社領として附置かれ、明治 四年に至りて止む。加之歴代の皇室御崇敬の餘り神位従四 位上に叙せられ、後世一位に昇進贈位に預る。現今の社殿 は貞享四年八月廿八日著手、仝五年五月十六日落成(棟 札)の建築にして、氏子及大氏人民の協力造営に係り、當 時の國主池田綱政公より再建費として玄米拾石下賜せられ たり。往古、氏子は七十五ヶ村ありて、其區域西南は本郡 高月村大字牟佐に至り、東北は津山市小桁に至れりと云ふ。 故を以て古今古式祭には社家(當家)より神酒七十九樽・神 饌七十五膳・神餅七十五臺(河見社(當)より各四十、山方 社(當)より各三十五)、甘酒貳瓶を献供す。これ往古より の舊例にして年々欽行し、舊式を廢することなし。明治十 四年六月十五日郷社に、同年十二月二十二日縣肚に昇格せ らる。」と記してゐる。

−『式内社調査報告』−



【 宗形神社 (赤磐市) 】

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