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岩隈八幡宮
いわくまはちまんぐう
山口県岩国市周東町祖生7184

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式内論社 周防國熊毛郡 熊毛神社 |
岩国市周東町にある。山陽自動車道玖珂I.C.をおり、
70号線を南下、約2Kmで、左折し500m程。
境内入口の階段を上がり、参道を歩くと途中に鳥居、その先に社殿がある。
年末の早朝7時に到着、暗い階段を登る。参道の霜を踏みながら進む。
光量不足で、うまく撮影できないため、何度も取り直す。
ストロボを使用しても光が届かないのだ。
岩国市(旧玖珂郡)には、岩隈八幡宮が、当社(周東町)と玖珂町に、二社存在する。
元禄四年九月、岩国藩主吉川広紀公が、ここ岩隈山(周東町)から
久重山麓(玖珂町)へ遷座したためだ。
その後災厄などが周東町の祖生の地に起るので、元の地に玖珂町の宮より
勧請したという経緯があるようだ。
以上の情報を、玖珂町の岩隈八幡宮の方より頂いた。
『周防國風土記』に、
「古老傳曰、往古三毛入野命祖父郷天岩熊。故名之謂熊毛、今熊毛宮是也云々」
とあり、式内熊毛神社の論社となっている。
『玖珂郡誌』には、「熊に似たる岩へ降臨生、熊毛神と崇ふ」とある。
ところで、当地玖珂郡は、養老五年(721年)に熊毛郡から分離独立しており
延喜式成立時(927年)には、明らかに、熊毛郡ではない。
よって、熊毛郡筆頭の熊毛神社とすることに疑問を持たれている。
しかし、他の論社が特に有力だという証拠もあまりない状態だ。
正月準備のためか、拝殿には紅白の幕。
本殿両脇に、稲荷や金毘羅などの末社がある。
参道入口 ![]() | 参道 ![]() | 鳥居 ![]() |
社殿 |
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社殿 ![]() | 本殿の右に金毘羅社 ![]() |
豊国稲荷社 ![]() | 本殿 ![]() | 境内右手の境内社 ![]() |
遷座した玖珂町鎮座岩隈八幡宮の由緒を掲載する 延喜式神名帳曰周防國式内十神之内ニ熊毛神社ト 称スルハ則此岩隈宮ノ事也周防風土記曰古老傳 云往昔三毛入野命祖生郷天降岩熊山故名之謂熊 毛宮也ソノカミハ玖珂郡ノ名称ナク皆熊毛郡トイ ヘリシヲ元正天皇養老五年熊毛ヲ分テ玖珂郡ヲ 置クト續日本紀ニ見ヘタリシカレバハジメ當宮 ヲ熊毛神社ナルコト著明ナリ又人皇四十五代聖武 天皇天平四年勅願ニ依テ樓門造立アリシ棟札今 ニ存セリ其後宇佐八幡宮ノ御分霊ヲ勧請シ奉ル ニ依リテ岩隈八幡宮ト総称シ奉レリ此大神ニ由 縁深クマス住吉大神ヲモ此時ニ合祀リテカク九 柱大神倶々ニ鎮リ坐スコトニナン成リケルサテ 應永元年源小原道秀左衛門尉次文本社再建ノ棟 札アリ永世十年癸酉十一月二十一日大壇主多々 良尾張守奥房本願主本立飛騨守資信再建ス其後 天文三年十一月如珠日尾張守奥房大江氏右衛門 尉房述再建ス同十四年南方三ケ郷安岡和泉守其 後天正二年三月吉日杉備後守夫ヨリ後元和九年卯 月吉日吉川廣家ノ代理代官佐武筑後再建アリ 寛文六年九月吉日再興セリ元禄四年九月旧岩國 藩主吉川廣紀ノ命ニ依リ本郡祖生村岩隈山ヨリ コノ久重山ニウツシ鎮奉リヌ −『山口縣社寺名勝圖録』− 当社は、周防風土記に、「古老傳云往昔三毛入野命祖生郷天降岩熊山故名之謂熊毛今熊毛宮是也」と記載されて熊毛神社と言われている。しかし勧請創建年月不詳、垂仁天皇の御世勅願を以て兵器(槍)を納めたもう今御神体を木瓜形黒漆に封じ鎮奉と申し伝う。その後祖生郷と瀬田郷の境に鎮座木(ちんざぎ)に八流の旗が天降り給うた故に八幡の大神の影向を知り和銅7年(714年)8月宇佐神宮より八幡大神を勧請したと伝える。室町時代になると、祖生地方は陶氏の知行するとこるとなり、当社もまた陶氏らの庇護を受けることになった。室町時代の作事を棟札銘によってみると、永正十年(1513年)陶興房を大檀那とし楼門が再興されいる。更に天文三年(1534年)十一月宝殿造立又、天文十四年(1545年)四月八日から二十二日にかけて上棟が行われ天正二〜三年(1574〜75年)宝殿の上棟そして元禄四年九月五日玖珂久重山に遷宮その後災害が多く宝永三年六月の台風にて破損村民恐れ旧地に社殿再建願いを出し宝永五年(1708年)四月十九日に本殿建立ここに鎮奉る更に宝永七年(1710年)祝詞殿を造営、ここまで何回も造営を繰返していることから災害も頻繁に起きていたと思われる。現実にこの岩隈山山頂は落雷も多く近世になって慶応の年にも火災に見舞われて幾つかの物を消失している。このことから、玖珂久重山遷宮は、災害より逃れる為であったとも考えられる。現在の本殿は明治二年に神殿材料全部を吉川藩主の寄付により再建されて今日に至る。尚、永正十年に建立された楼門の礎石と思われる石が現存しています。 −『平成祭データ』− |
【 岩隈八幡宮 】
