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総社宮
そうじゃぐう
岡山県岡山市中区祇園596

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岡山市にある。
山陽本線・高島駅から北へ2.5Km、
津山線・備前原駅から旭川を越えて、南東に2Kmほどの祇園に鎮座。
祇園用水の東側に、南向きの境内がある。
参拝は、正月三日の早朝。
日の出の頃なので、まだ暗く静かだ。
鳥居をくぐり、参道を歩くと、神門がある。
神門の奥、境内の中央に、紅白の幕が掛けられたテントが設置されていた。
当社は、平成四年二月に、放火によって焼失したため、
主な社殿がなくなっているのだ。
境内中央のテントは、正月祭典用のものだろう。
さらに進むと、祭壇が設けられている。これは拝殿の代り。
そして、本殿の位置、石段の上には、白い布で覆われた神籬がある。
焼失後、当社の神は、600mほど南にある素盞嗚神社、
通称、下の宮に祀られているのだが、祭典の時には、
この神籬の中に招くらしい。
いずれ、本殿が再建されれば、このような形態ではなくなるはず。
創祀年代は不詳。
備前国総社として崇敬された古社である。
その後は、当地区の氏神として、地域の信仰を集めているらしい。
境内には、境内社が四つ祀られている。
本殿の右手に一祠、左手に三祠。
詳細は不明。
境内入口 ![]() | 参道 ![]() |
境内 |
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神門 ![]() | 境内、中央のテント ![]() |
祭壇、拝殿の代りかな ![]() | 祭壇後方に神籬(ひもろぎ) ![]() |
神籬(ひもろぎ) |
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境内左手の境内社 ![]() | 境内右手の境内社 ![]() |
備前国の総社は、備前国府(推定地)の北西丘 陵に位置し、国司所祭の古社一二八の祭神を集め たものと伝えられる。成立の時期は定かでないが、 およそ平安時代と推定される。律令制崩壊後は、 氏神として地域の信仰を集め、中世の神仏習合期、 岡山藩による寛文の神社整理(一六六六〜一六六 七)を経て、現在に至っている。 現在の境内地付近には、惣社の内一、同二、馬 場といった字名が残っており、かっては一町四方 におよぶ広大な社地が広がっていたと考えられる。 現在の社殿は江戸中期のもので、幣殿の天井裏か ら室町時代前期の僧形社僧(現安養寺)が三体発 見された。 −『平成祭データ』− 総社の由来
総社とは多くの神社のご祭神を合祀した神社。古代律令制下、国司が朝廷の命で任国に派遣され、国府でその国を治めた頃のこと、当時は祭政一致の頃で、国司は国内の神社を巡拝しなければなりませんでした。ところが、広範囲の地域に点在する神社を全部巡拝するとなると、大変なことだったろうと想像出来ます。そこで、考えついたのが国内の神社のご祭神を一ケ所に集めてお祭りすることでした。これによって、巡拝のてまを省いたわけです。 この国内の神社のご祭神を一ケ所に集めたお宮を総社といいます。したがって、国府のそばにはかならず総社があります。総社は発祥の由来からして、その国一番のお宮であったことが想像できます。 岡山県には、備前、備中、美作の三つの国がありましたので、総社も三社あります。県内にはこの他に総社とよばれるお宮はありますが、それは郡や村単位の総社です。当宮は備前国の総社で通称備前国総社宮といわれています。創建年代は不祥ですが、平安時代の初期と推定されています。 備前国庁の祭典の場所として設けられ、備前国内(北は赤磐郡吉井町、東は和気郡・邑久郡、南は玉野市・小豆島、西は岡山市一宮)百二十八神社のご祭神が合祀されています。そのことから当宮へお参りすると一度に百二十八の神社にお参りしたことと同じといわれとおります。 現在の建物は江戸中期の再建で、往時の面影はありませんが、江戸時代当時の一般的な神社建築の形態をよく残しています。 昭和五年十一月、陸軍大演習の際に昭和天皇陛下が玉歩を進め遊ばされた神社です。 主な合祀神社 八幡雄島神社 吉備津彦神社 安仁神社 神根神社 布勢神社 片山日子神社 石門別神社 高蔵神社 深田神社 −『平成祭データ』− |
【 総社宮 備前国総社宮 】
