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神楽岡八幡宮
かぐらおかはちまんぐう
島根県大田市仁摩町仁万1436
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旧村社 |
島根県大田市にある。
仁万駅の北300mほどの神楽岡に鎮座。
道に面して駐車スペースがあり、その奥に鳥居。
鳥居をくぐると階段があり、その上に社殿。
境内は丘の上にあり、大きな社殿が下からも見える。
瓦葺の拝殿の奥に、銅葺流造の本殿があるのだが、
本殿の全体像を撮影することは難しい。
拝殿の屋根に矢紋が付けられている。
『神国島根』では、神紋は「二重亀甲に縦矢の羽二本」と記されているが、
拝殿の紋には亀甲はなく、「丸に並び矢」だった。
境内の右手に今宮社。
左手に龍宮社と稲荷社がある。
境外社には瑞島恵比寿神社。
全国に源氏の氏神である八幡宮が勧請された際に
応永三年、当地にも勧請された八幡宮。
神楽岡の山頂に社殿が造営されたもの。
明治元年五月十日、村社に列した神社。
社域 |
社域 | 鳥居 |
社殿 |
社殿 | 社殿 |
稲荷社 | 龍宮社 | 今宮社 |
実は当社へ参拝した目的は、
当社に合祀されているという國分寺霹靂神社。
資料によると、國分寺霹靂神社は
当地の東方、九号線の向こう側にある丘に鎮座しているらしく、
丘の周囲を歩いてみたが見当たらず。
付近の方に聞いたところ、國分寺霹靂神社は既に廃され
現在は、当社・神楽岡八幡宮に合祀されているとのこと。
古跡があるかも知れないと、丘の中を歩いてみたが
それらしき場所には雑草に覆われた平地があるのみ。
さらに歩き回っていると、明神古墳に行き着いてしまい
探索を終了した。
ひょっとすると、もう少し探せば何か見つかったかもしれないが。
國分寺霹靂神社は、口伝によると
聖武天皇天平十一年(十四年説あり)
仁万村雷山の半腹を開き平地となして国分寺を創建。
後、平城天皇大同三年(四年説あり)
四月中旬酉の日、國分寺霹靂神社を寺の境内に安置。
その後、尼子毛利の合戦により焼失し灰燼に帰す。
故に、明神山の嶺に社殿を建立し、元禄年間に遷座したという。
國分寺霹靂神社は、式内社・霹靂(白落)神社の論社でもあり
また、式内社・國分寺霹靂神社の論社でもある古社。
江戸時代に論争が起こり、結果として
霹靂(白落)神社論争において、
湯里の霹靂神社と当社が争い当社が敗れ、
國分寺霹靂神社論争において、
磯竹の霹靂神社と当社が争い当社がまた敗れたらしい。
明神の丘 |
平地 | 明神古墳 |
県指定史跡 明神古墳(邇摩郡仁摩仁万町)
この古墳は昭和59年(1984年)に発掘調査され、石見地域最大の横穴
式石室と家形石棺、優れた副葬品が多数出土し、石見地域の古墳時代を考
えるうえで貴重な古墳であることがわかった。古墳の墳丘は大きく改変を受けて原形をとどめていないが、直径20m、高さ 3m以上の円墳と考えられる。現在墳丘上にある石材は、発掘後に埋め戻さ れた横穴式石室の一部である。石室は自然石や割石でつくられており、全長10.1m の巨大なもので、奥の部屋である玄室は長さ6.7m、幅2.0m〜2.4m、高さ1.2m 〜2.2mある。玄室手前両側には柱石があり、両袖形を意識した造りとなって いる。内部の家形石棺は、蓋石に2個ずつの突起をもち、棺は長さ2.36m、幅1.02m、 高さ0.7mの大きさである。 副葬品は、玄室の南東隅から大刀・鍔・小刀・刀子・鉄鏃5・鏡片・鉄斧・鉄鎌・ 耳環・須恵器が、北西隅から金銅装円頭大刀・大刀・鏃・銅鋺・須恵器が出土 している。このうち銅鋺は、古墳時代のものとしては県内唯一で、全国的に貴重 なものである。この古墳は6世紀後半に築造されたものと推測される。 昭和61年(1986年)9月19日指定
−案内板より− |