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仲神社
なかじんじゃ
三重県多気郡明和町上野字仲畑245
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式内社 伊勢國多氣郡 仲神社 |
三重県の明和町にある。
近鉄山田線の明星駅の西1Kmほどの上野に鎮座。
明和病院の東側に社域の杜があり、南側に白い鳥居が立っている。
鳥居の脇に「式内仲神社」と刻まれた社号標があるが、側面には裏参道をある。
南側の鳥居は裏参道の鳥居で、表参道は東側にあるようだ。
ということで、東側に回って表参道から参拝。
表参道の鳥居は裏参道のものよりやや古い石鳥居。
鳥居の左手に手水舎があり、鳥居の脇には裏参道同様の社号標。
鳥居をくぐり参道を進み裏参道と合流して右手に社殿。
結局、裏参道から直進(北上)すると社殿の正面に出ることになる。
よって、社殿は南向き。
拝殿の前にも鳥居が立ち、拝殿の奥、垣に囲まれて神明造の本殿がある。
参拝は三月の晴天の日の午後。
日差しが強すぎて、社叢の影で写真としては失敗した感じだ。
裏参道の鳥居の脇に山神と刻まれたいくつかの石がまとめて祀られていた。
その左端には、平成十五年六月境内に遷座された西池の水神を祀った石も。
ただし、西池がどこにあるのかは確認していない。
『三重県神社誌』および『平成祭データ』には、
当社に関する由緒などの記載はない。
当社の社名から、仲臣子上の末裔が祖神である八井耳命を祀ったとされ、
『式内社調査報告』によると式内社・仲神社の論社。
鎌倉時代の徳治・正和の頃、東福寺の僧佛通禅師が仲畑の地に長松山安養寺を建立、
天正年間の織田氏の戦火により寺社共に焼失し現在地に遷座したとある。
安養寺は現在当社の北200mほどの場所にあるが、
当社は元は現在地の南西方200mの地にあったとされ、『伊勢式内神社検録』には
「上野村南西二丁ヲ去レル松林ノ中ニ古宮ト稱スル處アリ、
東西十間ニ南北廿間許無高ノ地ナリトソ。
其處ニ在ケル社ヲ東三丁許去ル地ヘ移セリト云フ」とあるらしい。
明治二年三月、神社改めの際に勅使北小路右京権太夫が参拝奉幣し村社となったが、
明治四十一年六月三十日、桜神社(現宇爾櫻神社)に合祀され、
昭和二十年、古社地である現在地に分祀された。
上記の合祀・分祀の状況により『三重県神社誌』などに記載がないのだろうか。
式内社・仲神社の所在地に関してはいくつかの説がある。
いずれも地名に中・仲が付く場所が候補となっているようで、
中川原説、中海村説、斎宮村南中村説などがあるが、
現在、仲神社と称するものは仲畑鎮座の当社と松阪市井口中町の社だけらしい。
『三重県神社誌』に当社の記述がなく、神紋の確認は出来なかったが、
本殿の屋根に花菱紋の金飾りが付けられていた。
社域(裏参道前から) |
表参道 | 裏参道 |
境内 |
参道 | 社殿 |
本殿 | 水神、山神 |