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穴石神社
あないしじんじゃ
三重県伊賀市石川2291
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式内社 伊賀國阿拝郡 穴石神社 |
三重県伊賀市にある。
阿山支所から北西に2Kmほどの石川に鎮座。
河合川に沿った道を北上すると、境内がある。
鳥居をくぐり、参道を進むと、かなり広い境内。
参道脇には、宝筐印塔や鐘楼がある。
拝殿には、江戸初期の木造狛犬がある。
広い境内に青い空と、背後の森が、
抜けるような、スカッとした印象だった。
創祀年代は不明。
以前は、天津社と称しており、波敷野村にあったが、
波敷野村と石川村の両村に分祀し、
御神体を波敷野村に、御神宝を石川の穴石神の地に祀ったという。
その後、波敷野村の天津社は、明治になって陽夫多神社に合祀された。
式内社・穴石神社の論社で、「穴石」=「穴師」と考える説もあり、
祭神を大和の穴師社と同じと見る考えもある。
明治になって、境内社および、石川鎮座の無格社を合祀し、
現在の祭神となった。
市杵嶋比賣命(市杵島神社)、宇迦能御魂命(稲荷神社)、
大山祇命(青嶽神社・山神社)、火産靈神(秋葉神社)、
彌都波能賣神(手若社)、
武甕槌命・經津主命(青嶽神社境内社白石神社)、
健速須佐之男命(穴石神社境内社津島神社)、
仁徳天皇(穴石神社境内社若宮八幡宮)
本殿には、梅鉢紋と巴紋が付いていた。
巴紋は、境内社だった若宮八幡宮のものか。
梅鉢紋は、どこから来たものか不明だが、
天津社=天神=天満宮という図式も考えられる。
が、やはり、不明。(というより、調べていない)
境内入口 | 鐘楼 |
参道 | 境内 |
拝殿 |
本殿 | 本殿と境内社 |
社号標 | 宝筐印塔 | 境内社 |
穴石神社御由緒
本社は延喜式(西暦928年)内社にして神名帳に、穴石神社とある。その創立は不詳であるが「清和実録」に「真観元年(西暦858年)巳卯正月27日庚申京畿七道諸神進階及、新叙奉授伊賀無位穴石神従五位下」とあるので、それ以前であることは明らかである。又図書に「石川村天津社是か其社地甚旧く社頭の結構尤古稚にして、古来の式社と云うべし、旦名張郡国津社を以って国(伊賀国)の南辺を鎮し、本郡天津社(本社)を以って国の北辺を鎮し、国の中央敢国津社を以って中極を鎮し、一の宮と称す」とある。按ずるに、一名天津社とも称されていたと思われる。 古来本社の所在については古書に各説があるが、藤堂元甫「三国地誌著者」の石川村天津社の説が正しいとして認められている。天正9年(西暦1581年)伊賀の乱により、社殿、古書等は悉く焼失した。明治39年9月より大正2年4月の間において、字内及境内に奉斎されていた各社を合祀して、穴石神社と単称することになった。 −『平成祭データ』− |
【 穴石神社 (伊賀市) 】