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糟目春日神社
かすめかすがじんじゃ
愛知県豊田市渡刈町北田62−4  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 参河國碧海郡 糟目神社
旧郷社

御祭神
天宇受賣命
配祀 彦火火出見命 素盞男命 天照大神

愛知県豊田市にある。
伊勢湾岸自動車道豊田東I.C.の北側、渡刈町に鎮座。
矢作川に西岸にあり、当社の南を明治用水が流れている。

境内入口は南側にあり、広場のように広い境内。
階段の上に鳥居が立ち、階段上の境内もかなり広々としている。

境内北側に社殿が、垣に囲まれて鎮座。
垣の中に、幣殿と本殿。
境内左側、垣の西側に3つの境内社が並んでいる。

創祀年代は不詳。

当社の鎮座する渡刈町は、
先土器時代の大明神遺跡、
縄文時代の北田遺跡、西糟目遺跡、
古墳時代後期の鳥狩塚古墳などがあり、
古くから開けていた土地。

古くは、塩指大明神とも称したという。
昔は、旧社地である末野原一帯まで潮が満ちて来たという。
また、勝女明神とも呼ぶが、これは糟目(かすめ)の社名からの転訛。

志賀剛によると、糟目の語源は、「河岸間(かしめ)」。
矢作川の川岸にということだろうか。

現社地には、大正3年に遷座し、
旧社地は、現社地の北1Kmの地点だったようだ。
それ以前にも、矢作川の洪水により何度か社地の変遷はあったらしい。

渡刈の地名は、持統上皇が大宝二年(702)に当地で鷹狩を行ったため、
鳥捕・鳥狩と変化したものだという伝承がある。
続日本紀には、三河国へ行幸したという記述しか見当たらない。
万葉集に「梓弓 陶の原野に鳥狩する君が弓弦の絶えむと思へや」とあるらしい。
この「陶の原野」が、旧社地の末野原だということだろうか。

式内・糟目神社として、岡崎市の犬頭神社との間で論争があった。
当社は、式内社であると是認されたが、明治五年、
糟目の下に春日の2文字が付加されて、現社名となった。

境内社は、秋葉社を中心に、右に津島社、左に山神社。
境内の案内には、津島社ではなく社口社となっていた。
津島=社口なのだろうか。


境内入口

鳥居

境内

本殿

社殿

山神社、秋葉社、津島社

祭祀殿竣工記念碑
七級社 糟目春日神社
鎮座地 豊田市渡刈町北田六二番地の四
祭 神
天宇受賣命
彦火火出見命
素戔嗚命
由 緒
一、 大宝二年持統上皇三河國に行幸当地に御駐 蹕の砌り鷹狩し給うよつてこの地を鳥狩鳥 捕都賀利戸苅と言ひ今日渡刈と書くに至れ り当時すでに糟目神社を祀れり
一、 第六十代醍醐天皇の御代に延喜式に載せら れ、文徳実録に正四位糟目神社とあり勝女大 明神又は塩指大明神と云はれ矢作川上流西 方一大原野をカスメ郷末野ヶ原と称し三河 の海の満潮時には潮指し来たれりと伝う
一、 明治二年神祇官より延喜式内社に確定される
一、 明治五年七月旧額田県より「春日」の文字を加称 して同年九月郷社に確定される
一、 明治三十九年四月供進神社に指定される
一、 大正二年無格社熊野社合祀現在地を拡大整備せり
一、 大正三年十月五日神殿八棟を新規築造奉斎せり
一、 昭和五十二年十月幣殿祀殿渡り殿を再建
一、 崇敬の誠を顕し以つて之を後世に伝う
末 社
社口社猿田彦命
秋葉社火産霊命
山ノ神大山祇神

−境内石碑−



【 糟目春日神社 (豊田市) 】

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