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高田神社
たかたじんじゃ
岐阜県飛騨市古川町太江神垣内2669
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岐阜県古川町(現飛騨市古川町)にある。
杉崎駅から神原峠方面へ抜ける道を少し登ると、道路脇に鳥居。
鳥居をくぐり、参道を登ると立派な境内がある。
鳥居や境内は、綺麗に整備されており、
山麓の神社としての威容を感じるたたずまい。
創祀年代は不明。
鎮座地の太江(タイヘ)は、郷名高家(タカイヘ)の訛り。
高地にある家々という意味らしい。
周囲には古墳なども多く、古代の中心地。
昔は白山権現と称しており、
江戸時代に式内・高田神社に比定された。
高田という社名を「アゲタ」と読む説もあり、
当社が、式内社とする確証があるわけではないようだ。
明治2年の高山県の『飛騨国式内式外社取調書上』では、
高田神社の所在未詳となっていた。
境内にある五柱神杉には、
当社祭神と同じ五柱の神を祀られており、五柱の神杉だそうだ。
当社の神使は雉。
天孫降臨以前に、葦原中国に遣わされた天若彦の偵察のため
高木大神に派遣された雉(別名、鳴女)だが、
天若彦に射殺された使いの神だ。
当社では社格として「金幣社」と掲げられている。
これは、岐阜神社庁長の参向社という意味らしい。
ちなみに「銀幣社」は支部長の参向社。
岐阜県独自の社格だろうか。
土砂降りの高速を飛ばして、飛騨に到着したが、
スッキリと澄み切った晴天になった。
青空に凛と立つ鳥居は良い感じ。
車道脇、参道入口の鳥居 | 境内入口の鳥居 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
御神木・五柱神杉 | 五柱神杉石碑 | 境内社 |
更に当神社の隣にある寿楽寺附近で白鳳期の古瓦が出土し近くに釜谷古窯跡も あることから古い寺院の存在が判明してそれは当神社の神宮寺的存在であったことが 推定され萬物すべての生成発展をつかさどる高魂命を祀る当神社は当時広く このあたり一帯の篤い信仰を集めていたと考えられる当神社の御神威の 発揚について正史に見られるところでは文徳天皇実録によれば仁寿元年 (八五一)正六位上に三代実録には清和天皇貞観九年(八六七)従五位上を 授けられ更に醍醐天皇延長五年(九二七)につくられた延喜式には 二月の祈年祭に官祭の班幣を戴く飛騨国式内八社の一つに列し国幣の 小社とされている中世になり御醍醐天皇の建武の中興の御偉業に功績のあった 飛騨国司姉小路家綱卿は当神社を崇敬し境内には「十楽観」(館)を 設けられた それは平安京にならい野中に賀茂神を祀り小島城を築いてその 山々を東山 北の峰を北野嵯峨山 城下の細江川を賀茂川と名づけられた 地名がいくつか現存していることから飛騨国統治の中枢にされたことを 物語っているまたその館跡が現存する今日においても例祭の御神幸には当時の 偉容を伝える武者姿が警護に当り火縄銃を発射して供奉しているが古書には 神職が国司の姿をして佩剣したとある近世になり白山信仰の勢力が飛騨にも 伸びて当神社は白山社と改称され元禄検地帳には白山権現宮の名が見えるしかし 江戸時代文化年間当時の神道の中心的存在であった京都吉田家の役人の 調査により高田神社であることが確認され社号碑を建てて旧に復することになった その後明治三年九月高山県は正式に式内社高田神社と称号する事を認め 明治五年には郷社に列せられたそして昭和五十一年には岐阜県神社庁長 参向の金幣社の指定を受けている 当神社には国司姉小路家一族の刀剣や 甲冑など武具の宝物も多数伝わり随神と小島城主時光公所有とされる 冬瓜蓑朱兜は古川町指定文化財であり御神木五程杉は天然記念物に神楽獅子 舞は県無形民族文化財に指定されている特にその舞中の采振りは独特の ものとして評価され神前のみで舞われることになっている −参道案内より− |
【 高田神社 】