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竹神社
たけじんじゃ
三重県多気郡明和町斎宮字牛葉2757−2  Zenrin Data Com Maps display !!


剣花菱

『三重県神社誌』より

式内社 伊勢國多氣郡 竹神社
旧郷社

御祭神
長白羽神 天照大御神 建速須佐之男命 八柱神
応神天皇 地主神 火産霊神 宇迦御魂神
大己貴命 天棚機姫命 八千々姫命 瀬織津姫神

合祀 式内社 伊勢國多氣郡 火地神社
岩内鎮座火地神社

三重県の明和町にある。
斎宮駅の東300mほどの字牛葉に鎮座。
428号線(斎宮街道)に面して南向きに鳥居が立っており、
鳥居の右手に「延喜式内竹神社」と刻まれた社号標。

鳥居をくぐると左手に社務所、右手に手水舎。
手水舎のそばには「八王子」と刻まれた石灯籠。
もとは、池村氏神の一つ饗庭の森八王子の石灯籠で
嘉永七年遷宮記念に氏子が作成したものだが、昭和三十七年池村より移転した。
また、その礎石は丹生上田野の常明寺の礎石だったらしい。

石灯籠の北側に鳥居が立っており、鳥居の奥が社殿の鎮座する杜。
参道を進むと、右手に神宮遥拝所、左手の奥には社日。
さらに進むと、左手に東向きの社殿。
社殿の前にも鳥居が立っており、参道を挟んで向かいに石の台。蕃塀だろうか。

拝殿内には祭神の名が列記されており、
その奥に瑞垣に囲まれた神明造の美しい本殿がある。

本殿のある瑞垣の左手に四角く整地された敷地がある。
参拝時には、神宮のように式年遷宮が行われ、隣りへ建て替えられるのだろうか、
などと思ったが、『式内社調査報告』によると祓所らしい。

当社は、明治四十四年、周辺の神社と合祀・移転されたもの。
現社地には、もとは宇志葉神社(野々宮神社)が鎮座していたらしいが、
さらに昔は斎宮城の跡。
室町時代斎宮の住人野呂三郎がここに城砦を築き勝手に徳政を敷き
狼藉を働いたので、国司北畠材親(きちか)に討伐されたと案内板にあった。

創祀年代は不詳。
社伝によると、垂仁天皇の御宇、
竹連(タケノムラジ)の祖・宇加之日子の子であ吉志比古が、
皇太神を奉じて伊勢御巡幸の倭姫命に供奉して此の地に留まった。
孝徳天皇の御代にいたって、多気郡が創設されるや、
その子孫が郡領に補任され、当地に定住して祖神である長白羽神を奉斎したのが当社の初め。
式内社・竹神社に比定されている古社である。

延喜斎宮式には竹上社と記されており、
同じく多気郡の式内社である、竹大與杼神社、竹佐々夫江神社などと合わせて
上・中・下の三社とされたものと思われる。

多気郡の中心で、当時は「竹の都」と呼ばれていたが、
天皇家の皇女が、天皇に代わって伊勢の神宮に仕える斎王制度が固まり、
当地に斎王が居住する斎宮が置かれたため、地名も「斎宮」となったらしい。

元は、現在、古里公園のある字中垣内に鎮座していたが、
明治四十年五月二十五日、金剛坂の八幡社、八雲神社、麻尾の織絲神社、
上村の八柱神社、若王子社、愛宕神社、津島神社、
岩内の八柱神社、火地神社、高ノ宮八幡社、八幡社、八柱神社、
池村の八柱神社、竹川の小倉神社、八幡社の十五社を合祀し、
明治四十一年九月五日、斎宮の野々宮神社に合祀されていた
斎宮の宇志葉神社、平尾の広橋神社を合祀して字中垣内より、字東裏に遷座。
合祀された岩内の火地神社は、式内社・火地神社の論社で、岩内の光安寺に小祠がある。
また、上村の八柱神社は、式内社・天香山神社の論社だが、昭和四十五年古社地に分祀された。

のち明治四十四年四月一日、勝見の丑寅社、栃木社、笛川の楠南社、荒祭社、稲荷社、
中西の津島社を合祀し、斎宮神社と改称されていた斎宮の野々宮神社の社地に移転したもの。
『三重県神社誌』では、現社地は宇志葉神社が鎮座していたとあるが、
たぶん、宇志葉神社は野々宮神社に合祀されたあと、野々宮神社となっていたのだろう。

以上のように多くの合祀の結果、現在は多くの祭神が祀られているが、
『明治神社誌料』では、主祭神は長白羽神。相殿に八柱神と地主神となっている。

また『平成祭データ』によると、長白羽神は吉志比古を祖とする竹連の祖神ではなく、
天武天皇の御宇、大伯皇女が斎王に麻績氏が頭に任ぜられたが、
この麻績氏の祖が長白羽神であり、当社の主祭神となったとあり、
本来は、宇加之日子や、竹田臣の祖・大彦命を祀っていたとする資料もある。
ただし、竹連と麻績氏を同祖とする資料もあってややこしい。

社殿の横に、謡曲「絵馬」の案内板がある。
「伊勢参宮名所図会」に毎年大晦日、伊勢の斎宮で絵馬をかける行事が載っているが、
謡曲「絵馬」では、それを節分の夜としている。
参宮堂の辻に、その絵馬堂があったが明治の終わり頃に廃され、
加藤氏に譲られたが終戦直後老朽化により焼却。
絵馬は佐々木氏が譲り受け、大正のはじめ竹神社に寄贈され神宝となっているらしい。

『三重県神社誌』『全国神社名鑑』には当社の神紋は剣花菱とある。
参拝時には確認できず、どのような図案かわからないが、
とりあえず一般的な剣花菱の紋を載せておく。


鳥居と社号標

境内と手水舎

八王子石灯籠

境内鳥居

境内。左手に社殿

神宮遥拝所

石の台。蕃塀?

石台から社殿

鳥居と拝殿

拝殿

本殿

瑞垣内に本殿

社日

英霊殿

本殿左手(南側)に敷地(祓所)

竹神社 参拝のしおり
垂仁天皇の御代、竹連・竹氏という豪族、連は姓の祖、宇迦之日子の子、吉日子が天照大神の奉行に供奉して、この地に留まり、孝徳天皇の御代に至って、竹郡創建の際に、その末裔が当社を創祀した。竹吉日子については、「皇太神宮儀式帳」に、竹の首吉比古の名がみえ、神社は櫛田川の古流祓川の東岸台地である竹川字中垣内(ふるさと地区)に祀られていた式内社である。斎王制度が固まっていくとともに、地名も「竹の都」から「斎宮」に変わっていった。「斎宮」には「斎王」がおられ、天皇に代わって、伊勢の神宮に仕えた。その役所である屯倉斎宮寮には往時500余人を数える官人がおり、内院、中院、外院と17の社が祀られていた。斎王はこれらの社を参拝せられた。「野々宮」もその一つであろう。天武天皇のとき、大伯皇女が斎王に麻績氏が頭に任ぜられた。この麻績氏の祖が、長白羽命で当社の主祭神として祀られている。現在地の「野々宮」は「斎王の森」とともに斎王にゆかりの地であり、毎年6月「斎王まつり」が行なわれる。

−『平成祭データ』−


斎宮駅の西500mほどの場所にある古里公園が旧社地。
古里公園には斎宮歴史博物館があり、その南の多目的広場のさらに南の森の中に、
竹神社跡を示す「式内郷社竹神社御趾」と刻まれた石碑が立っている。
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当初、正確な場所がわからなかったので、斎宮歴史博物館の駐車場に車を停めて、
それらしい森を目指して歩くと、南側の駐車場の奥に入口に案内板が立っていた。

その案内板によると、
竹神社は、もと竹川の産土神で「桧木宮」といった。
明治四十四年四月全村二十三社とともに現在の竹神社に合祀されているとある。

『式内社調査報告』によると、江戸時代には八王子社と呼ばれていたらしい。

車を停めていた駐車場へ戻る途中。
竹神社跡から北へ少し歩いた場所にも、何かの入口があったので入ってみたら、
「小倉神社蹟」という石碑が立っていた。
竹神社とともに合祀された神社の跡だが、
この小倉神社は、もとは天王と呼ばれていた神社が改称したもの。
御巫清直は、この小倉神社が竹川の産土神、つまり竹神社と考えたようだ。

もっと探せば周辺に、多くの神社跡を見つけることができるだろう。


斎宮歴史博物館と塚山2号墳

竹神社跡の森

入口

参道

石碑が立っている

竹神社跡に石碑

「式内郷社竹神社御趾」

小倉神社跡入口

「小倉神社蹟」

『式内社調査報告』によると、上記の旧社地から
明治四十一年に字東裏へ遷座し、さらに明治四十四年に現社地へ遷ったとあり、
字東裏は、現在の斎宮小学校西裏とある。

斎宮小学校の裏には近鉄山田線の線路が走っており、
その後方に、こんもりとした林がある。
特に神社跡を示すものは見ていないが、雰囲気はある。
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小学校裏の森

【 竹神社 (明和町斎宮) 】

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