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和志取神社
わしとりじんじゃ
愛知県安城市柿碕町和志取35
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式内社 参河國碧海郡 和志取神社 |
愛知県安城市にある。
宇頭駅の北1Kmの柿崎に鎮座。
当社の東2Kmほどに矢作川が南北に流れている。
鎮座地の柿崎は、当社の社前に位置し、
神前(かみざき)村と呼ばれていたものが変化したという。
境内入口に鳥居と、大きな木が聳え、
境内の奥に社殿。
本殿の垣の右手には、境内社が一つ。
創祀年代は不詳だが、
社伝によると、継体天皇即位元年の創立。
永禄三年に兵火により焼失し、
ながらく、仮殿のままだったが、
織田信長の命により再建されたらしい。
当社は、以前は白山社と称していたが、
江戸時代末に、現在の社名・和志取神社に復したという。
明治になって、愛知県から、和志取神社と称することを禁じられたが、
氏子・村民の請願により、命令は取り消され、現在に至る。
社殿の瓦には、梶の紋が付けられていた。
祭神・天日鷲命を祀る、阿波の忌部氏の神社の神紋と同じ紋だ。
境内入口 | 境内の鳥居 |
境内 |
拝殿 | 拝殿右手の境内社 |
本殿 | 本殿 |
社記
古来歴朝の崇敬浅からず延喜式神社に列し三河国 二十六社の一にして碧海郡六座中の旧官社なり 永禄三年兵火に遭い焼失爾後天正三年まで 仮殿遷座のままなりしが同年織田信長長篠城に 向う途次当社に詣で手ずから金作りの大刀を捧げ 戦勝を祈願しその折奉行に命じて社殿を再建せしめ たり即ち武門武将の尊崇厚く国司国守藩主 領主の崇敬推して知るべし 明治十五年十月村社に列し明治四十年十月神 饌幣帛供進神社に指定せらる即ち氏子五十八戸の 守神にして旧矢作町の崇敬神社たり昭和三年伊弉 諾命を合祀昭和二十七年宗教法人となり氏子崇 教者の誠心により社殿境内も整備され今日に至る −境内案内板− 由緒
創建は明らかでない。延喜式内社三河国二十六座の和志取神社と彫む旧石標あり、社地の附近にワシドリと称する耕地あり。「参河国官社考集説」に村上忠準北柿崎村に宇和志取と云う所まことの式社なるべし、と「神祇志科」に柿崎村字和志取あり(宝暦4年田畑名寄帳重原藩取調書)明治7年、西本郷村鎮座、長谷部神社より和志取神社なりと上申あり両者の上申により教部省は8年2月未定の神社と達しあり、止む。昭和3年3月2日字和志取一番無格社熊野神社を本社に合祀した。 −『平成祭データ』− |
【 和志取神社 (安城市) 】