![]() |
|
|
菟足神社
うたりじんじゃ
愛知県豊川市小坂井町宮脇2

|
||
式内社 参河國寶飫郡 菟足神社 |
愛知県豊川市(旧小坂井町)にある。
小坂井駅の東200mほど。一号線の側に鎮座。
鳥居をくぐると正面に社殿。後方に本殿。
神紋は「兎」。賽銭箱などに金の兎が付いていた。
拝殿の中には、奉納された大きな兎が鎮座。
リアルな形をしており、ちょっと怖い。
祭神は、雄略天皇の頃、穂国造であった菟上足尼命で、
葛城襲津彦の四世孫。
社伝によると、
当初、平井の柏木浜に祀られていたが、
天武天皇白鳳15年4月11日、現在地へ遷座した。
現在地には昔、八幡神を祀っており、
その相殿となったという説もある。
中世では、菟足八幡宮とも呼ばれ、
現在も、本殿横に境内社・八幡宮がある。
当社の祭事・「風まつり」は花火で有名らしい。
また、『今昔物語』19巻や『宇治拾遺物語』4巻に、
三河の国守である大江定基が出家して
寂照という名の僧侶になる話が載っており、
そこに、三河の「風まつり」という行事で、猪を生け捕りし、
生きたまま捌く様をみて、「早くこの国を去りたい」と思うとある。
昔は、当社の風まつりに猪を生贄として供えていたらしいが、
現在では雀12羽を供えるらしい。
『和漢三才図会』にも雀12羽を射取って供えるとあり、
江戸時代にはすでに雀だったようだ。
本殿の屋根に、桐紋が付いていたが、
やはり神紋は「兎」だろうと思う。
ただし、本来の神紋かどうかは確認していない。
あるいは、後に社号からわかりやすい社紋に変えたのかもしれない。
鳥居 ![]() | 社殿 ![]() |
境内 |
![]() |
ウサギの神紋 ![]() | 本殿 ![]() | 本殿横に八幡宮 ![]() |
拝殿内の兎 |
![]() |
境内社 山住神社、金刀比羅宮、津島神社 ![]() | 神楽殿 ![]() |
菟足神社志留倍
由緒「昇格碑文」菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城襲津彦命(大和朝廷の名族)四世の御孫にませり。雄略天皇の御世穂の国の國造(東三河の国司に当る)に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木濱に宮造して斎ひまつりしを天武天皇の白鳳十五年四月十一日(昭和五十二年より千二百九十一年前)神の御おしえのまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり。はやく正六位上の神階を授け給ひ貞観六年二月十九日従五位下に進められしが國内神名帳には正三位と記されたり(中略)。 徳川幕府の世となりて家康親しく参拝して神領(九十五石、制礼寄進)を寄せしより累代の将軍も其の例に倣ひ領主藩主等の尊敬の尋常ならざりしこと社記に詳なる所なり。 明治維新の初天皇御東幸のみぎり勅使をして幣帛を捧げしめ給ひしはいとも尊く、かしこき極にこそ(中略)。 斯る由緒ある神社(中略)なりしかば大正七年十一月二十二日県社に列せらるる事となりぬ(中略)。此の事の由を永遠に伝へむと大神に仕へ奉る社司川出直吉ぬしの請へるままに其の大むねを識すになむ。 −『平成祭データ』− 式内 菟足神社
当社の大般若経五八五巻は、國の重要文化財に 指定(昭和三六年)されている。僧研意智の書(一一 七六〜一一七九)であるが、長い間弁慶の書と伝え られていた。(弁慶が東下りのおり洪水のため渡航 できず、滞在七日の間に書き上げて神前へ奉納した と信じられていた。) なお応安三年(一三七〇)の銘のある梵鐘(昭和 三九年県文化財指定)は、本社前の水田から発掘さ れたものであり、当時は今の手水舎の位置に鐘楼が あったことが江戸末期の参河國名所図会に出ている。 当社のお田祭の行事(昭和二九年県無形文化財 指定)は、旧正月に行なわれる。 風祭りとして知られる例祭は、四月第二土曜、日曜日 に行なわれ、打上花火 手筒花火は特に名高い また、祭礼の古面(五面)は昭和四〇年県文 化財に指定されている。 −社前案内板− 菟足神社と徐福伝説
今から二千二百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に蓬
莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、
始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)
を連れ、蓬莱の島に向かわせた。しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向はわか
っていない。ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、 わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような菟 足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。
−社前案内板− |
【 菟足神社 (小坂井町) 】
