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中川神社
なかがわじんじゃ
岐阜県中津川市北野町816−1

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岐阜県中津川市にある。
中津川駅の北100mほどの北野町に鎮座。
JR線路のすぐ北側に境内がある。
境内入口は南向き。鳥居の扁額に「中川神社」とある。
鳥居をくぐり長い参道階段を上るともう一つの鳥居。
境内左手に手水舎があり、右手には神楽殿。
正面の階段を上ると、当社の社殿。
境内に「平成の大改修」の石碑が立っており、社殿も比較的新しい印象。
拝殿は銅板葺き。拝殿後方の本殿も銅板葺きで流造。
本殿の周囲の垣が、サッシの枠に透明な合成樹脂で面白い。
本殿の左右に御神木の若い梛の木が植えられている。
社殿の左手に西側参道があり、「御神木(高野槇)120m」との案内。
その案内から、舗装された道ではなく、山道に入って行くと御神木があるのだが、
僕は、うっかり舗装路を進んでしまい迷子になった。
付近の方に、西側から森に入る御神木への道を聞き、なんとか到着。
森の中に秋葉社の石祠があることも教えていただいたので、
迷子になって良かったのかもしれない。
創祀年代は不詳。
手水鉢に白山大権現と刻まれており、江戸時代までは白山社(菊理媛命)と称していた。
相殿に熊野社(伊邪那美命)、富士社(木花咲耶媛命)を祀る。
また、薄野社とも呼ばれていたらしい。
『美濃国内神名帳』に「従四位 中津河明神」とあり、
式内社・中川神社に比定されている古社。
つまり、中津川の中心的な明神ということだろうか。
ただし、中津川には当社・白山権現社の他に八幡社、神明社があり、
いずれが中川神社であったのか定かではないという説もあるようだが、
現在は当社が中川神社ということになっている。
天正二年二月、武田勝頼による兵火にかかり焼失。
後、延宝五年(あるいは二年)に再建され、
明治になって中川神社と改称し、村社に列した。
御神木の高野槇のそばにある案内板に、当社の祭神は三女神であり、
高野槇が中程から三つに分かれていることが象徴的だとある。
そういえば、賽銭箱には三つ巴紋が付けられていた。
当社の神紋が三つ巴であるなら、これも象徴的だ。
社頭 |
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参道階段 ![]() | 階段上にも鳥居 ![]() |
境内 |
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左に手水舎 ![]() | 右に神楽殿 ![]() |
さらに階段を上ると ![]() | 社殿 ![]() |
境内社殿 |
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拝殿 ![]() | 本殿 ![]() |
本殿左右に御神木・梛 ![]() | 御神木・梛 ![]() |
社殿横の手水鉢には白山大権現 ![]() | 境内左手、山へ120mに高野槇 ![]() |
最近発見されたという御神木の高野槇 ![]() | さらに奥に秋葉社 ![]() |
中川神社 御神木について
この境内地に古きよりそびえ立つ異形の高野槇は、この度発見された中
川神社の御神木である。胴回りが約二、七五メートルあり樹齢は約二百数
十年以上と推定されるこの御神木は、日本国中数ある高野槇の中にありて
も一際大きな木であり、また中程より三つとなる姿も大変めずらしい。この中川神社は古来、国の年中行事の典拠として尊重された法典である 延喜式(九二七年奏上)のうち、当時の主要神社名を記した神名帳に記載 がある、歴史あり格式の高い神社である。御祭神は ・菊理媛命(くくりひめのみこと) ・伊邪那美命(いざなみのみこと) ・木花咲耶媛命(このはなさくやひめのみこと) の女性神三柱の大神さまであり、この高野槇はまさにその御姿を現された 象徴的なありがたい御神木であると言えます。 奇しくもこの度、皇室の秋篠宮家におかれましては皇孫殿下であらせら れます悠仁(ひさひと)親王様ご誕生の慶事に合わせこの御神木が見つか り、またそのお印が日本国固有の木である高野槇と決まりましたこともご 縁浅はかならぬ所である。 この中川神社御神木のご霊威により、皇室のご繁栄をご参拝の皆様のご 多幸を心よりご祈念申し上げる次第であります。 −御神木・高野槇案内板より− |
