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三嶽神社
みたけじんじゃ
静岡県浜松市北区引佐町三嶽597
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式内社 遠江國引佐郡 大神社 |
静岡県浜松市引佐町にある。
浜名湖の北東に位置する、海抜467mの三岳山の山頂近くに鎮座。
天竜浜名湖鉄道の金指駅から井伊谷川に沿って、257号線を北上し、
旧引佐町役場付近から東へ入ると、三岳山へ登る車道がある。
荒れた林道を想像していたが、綺麗に舗装された車道が続き、
あっという間に、当社前に到着してしまった。
途中、車道の左手に鳥居が立ち、石の階段を上る参道があり、
そこにも小さな駐車スペースがある。
参道の階段は鬱蒼とした雰囲気で、巨木の根が参道の石を押しのけていた。
社殿は、薄い桃色をしたコンクリート造だ。
背景の緑と、青い空が美しい境内。
桜の咲く春や、紅葉の秋には、さぞ美しいことだろう。
(桜があるかどうかは、わからないが)
創祀年代は不詳。
境内は、三岳城当時、三の城(出丸)のあった場所にある。
三岳城は、井伊氏によって築城された南北朝時代の南朝側の拠点であった。
式内社・大神社の論社。
「大」は、オオセチと読むらしいが、
タイセチ・タイセキと読む説もある。
当社の鎮座地の字は、「タッサ」という点も論社となった理由だろうか。
現在の祭神は、勾大兄広国押武金日尊(安閑天皇)だが、
三岳神社は、三岳権現の社とも呼ばれており、
蔵王権現の流れから、蔵王権現の神である安閑天皇を祭神としたのだろうか。
参道入口の鳥居 | 参道下から | 参道上から |
境内 |
社殿と階段 | 社殿 | 三岳城山道入口 |
社殿横から |
境内の左手から、三岳山山頂にある三岳城跡への山道が続く。
境内から約500m。
それほどの距離ではないので、登ってみることにした。
が、傾斜が急で、なかなかに、しんどい道だった。
当日の体調も関係するのだろうが、ひょっとしたら三峰に登った時よりも。
そういえば、三岳は三峰と同じ意味なんだろうな、
あるいは、御嶽が三岳となったのかな、
そういえば御嶽の祭神は大國主命と少彦名命だったな、
などと考えていると、石碑があり、少し開けた場所に到着。
到着か、と喜んだら、ただの道標だった。
右奥に、祠のような、小屋のようなものが見えるが、
これが、境内案内にあった「奥社」だろう。
そこからさらに登ると、一の城と二の城の分岐点にも石碑。
そこから西へ150mほど、さらに急な斜面を登ると山頂の城跡。
山頂は芝生が植えられた、狭いけど気持ちの良い場所で、
南側の景観が素晴らしく、浜名湖なども良く見える。
写真を数枚撮って、汗を拭って、下山開始。
滞在時間は、一分程度。
急な斜面を、注意しながら下りながら、
登りは体力を使うが、降りは神経を使うんだなぁとか
一分で降るのに、なぜ、登ったのだろうとか
考えている間に境内に到着。
三岳城跡への山道 | 三岳城跡への山道 | 山頂の石碑 |
本丸跡 | 本丸跡から |
三岳神社
−社前案内板− 三岳城跡
国指定史跡〔昭和十九年三月七日〕 当城は三岳山の山頂にあり、井伊氏の築い た諸城の内の本城である。南北朝時代、延元 三年〔一三三八〕秋、後醍醐天皇の皇子宗良 親王が再び伊勢より井伊谷に入られ、この城 を南朝勢力の遠江における軍事上の拠点とな された。足利尊氏勢の高師泰・高師冬・高師 兼・仁木義長の大軍に攻められ、ついに興国 元年〔一三四〇〕正月落城し同年八月二十四 日夜、詰城太平城も追い落とされて南朝の拠 点は失われた。宗良親王は駿河の安倍城に移 られたものと推定されている。その後戦国期 元遠江守護であった美濃の斯波義達が井伊谷 に入り、曳馬城大河内貞綱と井伊氏がこれに くみした。今川氏親は細江町刑部城・堀川城 に伊達忠宗を入れて前進基地として三嶽城を せめた。永正十年〔一五一三〕に掛川城主朝 比奈泰以を主力とする今川勢の総攻撃によっ て落城した。 この城は、山頂から尾根に沿って細長く築 かれ、一の城・二の城・三の城と分かれ、深 い谷や急な斜面など峻険な自然の地形を巧み に利用し、中世城郭の典型的な形態を有して いる。 一の城〔本丸〕 山頂にあって一番大きく、大型の土塁を幾 重にも廻らせ、谷下・兔荷方面からの攻撃を 防ぐ。 二の城「二の丸」 一の城より東の高地一帯にあって、川名、 滝沢方面よりの敵を防ぐ。 三の城〔出丸〕 現在の三岳神社の境内にあり本丸に迫る敵 を阻止し、山城で一番重要な水を確保する役 割を果たした。 宗良親王の庵室もこの地にあったと伝えて いる。籠城中に後醍醐天皇の崩御にあわれ、 親王は城の紅葉を折ってこれに「おもふにも なほ色浅き紅葉かな そなたの山はいかが時 雨るる」の一首を添えて吉野に届けられた。 −三岳神社境内横の案内板− |