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多岐神社
たぎじんじゃ
岐阜県養老郡養老町三神町406−1
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岐阜県養老町にある。
美濃高田駅の北西1Kmほどの三神町に鎮座。
参道入口の鳥居をくぐり、
参道を進むともう一つの鳥居があり、
渡れない石橋がある。
参道の右手に、もう一つの参道があるので
そちらを進むと広い境内。
参拝は、冬の午後。
葉を落とした木々が多く、冬枯れの雰囲気。
境内が広いので、寂寥感すら感じられる参拝。
社伝によると、創立は和銅年間。
多芸郡は、『古事記』に、
倭建命が伊吹山から三重へ向かう途上に立ち寄られ、
疲れている状態で「吾が足得歩まず、たぎらぎしくなりぬ」
と言ったことから、当芸と名づけられたと記されている土地。
当社は、当地を支配していた古代の豪族・多芸氏が
その祖神を祀った神社と考えられる古社。
本殿の裏には円墳もあり、
昔は、大塚大社とも呼ばれていた。
円墳には妙法経が埋められていたらしい。
当社境内には、多くの境内社が祀られている。
本殿右手には、御鍬社・神明社・八幡社と、多藝御霊社。
本殿左手には、神明社・御鍬社と、素盞嗚社・藤代社。
さらに左手に、派稲荷社、大日堂、八雲社。
境内案内によると、本殿左右に、
高山神社(木花開耶姫命)と三野神社(美濃大神)があるはずだが、
残念ながら記憶にない。
ひょっとしたら拝殿の中か、本殿同座かもしれない。
境内の案内によると、当社は「奇端之稲発生の地」。
大正時代に大日照りがあり、
周辺の稲が枯れたにもかかわらず、
当社社務所前には、早稲・中稲・晩稲の
三種の稲が自然に生え、見事に生育したという。
参道入口 | 参道の鳥居 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
本殿左の 神明・御鍬、素盞嗚・藤代 | 本殿右の 御鍬・神明・八幡、多藝御霊 |
八雲大明神、大日堂 | 派稲荷神社 |
多岐神社由来記
当社は和銅年間に創立鎮座された
延喜式所載の古社で「三宮正一
位護法大菩薩」なる勅願あり 古
は多芸郡五十五村の宗社として
神官多数斎仕し 別当寺六坊
勤仕怠ることなかった 又 安久に
大鳥居 中村に御旅所があり 春
秋二季の祭典は盛大を極めた
しかるに弘治 永禄の動乱により
社領を没収され 天正の洪水によ
り社殿 諸堂流出して祭儀は一時
衰退した 時移り慶長以後逐年に
造営が行われ来ったが 明治六年
郷社に列せられ 昭和三十七年神
社庁長参向神社(金幣社)に指定
せられ 明治 大正 昭和年間に
於ける境内地並に社殿等の造営
整備は目ざましく 盛大なる祭儀
も亦復興した
斯くて「五穀豊饒 諸願成就 信
徒繁昌」の霊験益々あらたかに 氏子
崇敬者の範囲も拡大しつつある−境内案内− |
妙法経塚(円墳) |
塚の上の祠 | 祠の中の石 |
多岐神社 妙法経塚
多岐神社の社殿の裏の円墳の頂上に
一一八九年(文治五年)に建てられ
た妙法経塚があります。
経塚というのは、平安時代の中頃
から鎌倉・室町時代へかけて作られ
ました。世の中は、末法といって仏
の教えがすっかりすたれてしまう時
代に入ったと信じ、今のうちに仏の
教えを書いたお経を地下に埋めて残
し、ずっと後の世に弥勒菩薩という
お方が世に現れて、再び仏教が盛ん
になる時の準備をしておこうと考え
て作ったものです。多くの場合、紙
に墨で書いたお経を円筒形の経筒に
入れ。地下三十センチメートルから
六十センチメートル位の石の箱の中
におさめ、その脇に魔除の力や鏡を
置き、木炭をつめて石の蓋をし、地
上に饅頭型の盛土をしました。−境内案内− |
【 多岐神社 (養老町) 】