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石室神社
いろうじんじゃ
静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎9
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式内社 伊豆國賀茂郡 伊波例命神社 |
静岡県の南伊豆町にある。
伊豆半島の南端、石廊崎に鎮座。
16号線から案内に従って南に入ると、
突き当たりに、遊覧船乗場がある。
車はここまで。
ここから先は緩やかに上る坂道を1Kmほど歩く。
しばらく歩くと当社の鳥居が立っており、参道へ続く。
さらに進むと、燈台が見えてくる。
燈台の横の小路を進むと、太平洋に突き出た岩が見える。
拝殿は、参道階段を少し下りた所。
高さ40mほどの位置に、岩にメリ込むように立っている。
拝殿には横から入るが、岩を背にして扉があり、奥に本殿。
拝殿から岩の方まで参道が続いており、
岩の陰に、熊野神社の祠。祠には縁結の神を書かれていた。
参拝は、正月四日の早朝。日の出の頃。
沖には、神子元島のシルエットも見える。
神子元島には燈台しかないので、分かりやすいのだ。
初日の出ではないが、せっかくの日の出なので、
熊野神社の前でしばらく眺めて、今年一年の幸せを密かに願う。
参道を戻りかけて振り向くと、
岩の上に朝日が昇り、
まるで岩から吹き出たような形。
あるいは、海中から黒い龍が顔を出し
火の玉を噴出したようで面白い。
当社の社号は、石室。
資料によっては「いしむろ」とも「いろう」とも記されているが
石廊崎(いろうざき)にあるので、「いろう」が好み。
社伝によると
文武天皇大宝元年(701)の創建。
当時は、観音と第六天神を安置していたが
奈良時代に役行者が神託を受け、
伊波例命を奉斎したという。
中古以来、金剛山石室権現と尊崇され、
江戸時代には、韮山代官江川氏を経て、
幕府から米二表の供進を受けていた。
『石廊山金剛院縁起』によると
役行者が大島守禁の時、
十一面施無畏の神力を得てこの地に至った。
後、文武天皇四年(700)大地震があり、
龍が現れてこの巌を守り、白鳥もまた、この岸を守った。
村人が不思議に思い語り合う中で、
一人が、昨夜の夢で海中より宝殿が浮かび上がり
岬の中腹の窟にかかるのを見たという。
行ってみると、果たしてその通りであり
中に十一面観音が安置されていたという。
天平年中(729〜749)、行基によって
さらに第六天神が祀られてという。
『伊豆国神階帳』に「従四位上いはら姫(いわし姫)」とあり、
式内社・石室神社に比定されている古社。
拝殿内の床下に千石船の帆柱があり、
床の上からも見えるのだが、写真を撮るのを忘れた。
昔、播州(あるいは紀州)から塩運搬の千石船が、
石廊崎の沖で嵐にあった時、千石船の帆柱を
石廊権現に奉納すると誓って祈り、無事に江戸の到着。
帆柱奉納のことをすっかり忘れて帰路につくと、
当社の沖で、船が進まず、暴風雨になった。
往路の誓いを思い出した船主が千石船の帆柱を斧で切倒すと
帆柱は波に乗って、当社社殿まで到達し、
船は無事に播州へ戻ったという。
役の行者 |
鳥居 | 燈台の先へ |
岩にメリ込んだ社殿 |
拝殿 | 拝殿殿内部 |
扉奥に本殿。閉まってた。 |
拝殿から先へ | 突き出た岩の上に熊野神社 |
岩 |
岩の陰に熊野神社 |
石廊権現と千石船之由来
祭地は相模灘と遠洲灘の中間に位し東風西風共に筆舌に絶し
又陰れし岩礁多く黒潮近くを走ると云ふ難所で在る或る期播洲濱田港所属の塩運搬の千石船が此の岬に差掛りし時、折 悪く黒雲海面をはい雨は篠を突き波浪は峰渓をなす船は最早 轉覆有るのみと見られ船主船子共になす技も無く一心に見えぬ対岸 の石廊権現に向いて無事江戸に着く事が出来得るならば帆船の命 で在る帆柱を奉納すると誓願を込めるとさしも荒狂った波もや がて凪いで無事江戸に着く事が出来荷揚げを済し巨富を得て帰 途に付く航海日和に恵まれ往路の出来事も忘れ此の岬の沖を過 き様とした だが不思議な事に満帆に追風をはらみ全櫓充分に水 をかくも船は一向に進まず坐礁した如くにてやがて次第に風雨強く狂暴 なる暴風雨と急変し船子等の不安は往路の期に増して激しく船主は 往路の期の願事に思いを致し木の葉の如く震る船上にて斧を以て、 帆柱を切倒し海に投じ石廊権現に奉納されたすると不思議なる事に帆 柱は荒れ狂う大波の波頭に乗って幾十丈の高き社殿の御前に供えた 如く打上げしと同時に波も静まり船は櫓を以て走り去りしと傳え られて居り今直當社殿の基礎となりて此の建築物を支えて居り 當社の御神威の高きと共に此の神技を伊豆の七不思議の代表的な 神話として廣く風光名美さと共に日本全国に知られ居る 帆柱材質檜 長サ六間約十二メートル −社殿内案内板− |