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来宮神社
きのみやじんじゃ
静岡県熱海市西山町43−1

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式内社 伊豆國賀茂郡 阿豆佐和氣命神社 |
静岡県熱海市にある。
来宮駅の北東300mほどの西山町に鎮座。
東海道線の高架をくぐって北上すると、すぐに社域の森に突き当たる。
昔は、鎮座地名も来宮と称していたようだ。
境内入口に橋があり、橋の奥、森の入口に鳥居が建っている。
鳥居の脇には「来宮神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐり、参道を進むと、
参道左手には「来宮惣社稲荷神社」、
参道右手に「第二大楠」と三峯神社がある。
さらに参道を進み、階段を上ると広い境内。
境内奥(北側)に、一段高く大きな拝殿があり、
拝殿の後方に本殿がある。
参拝した日は天気が良く、
境内の外は、むちゃくちゃ明るかったのだが、
木々の密度が濃いためか、境内は暗く、静かな雰囲気。
樹木の太さが、さすがだ。
境内の右手に「開運出世弁財天」が石の上に鎮座。
本殿右手の石垣に穴があり、何かが祀られていた。
そして、境内左手に、樹齢二千年以上の御神木・大楠の大木。
年季の入った樹皮の表情が、なぜか神々しいのだ。
社伝によると、太古、
大己貴命が熱海の海岸に上陸し、居を構えて国を治めた。
その宮跡が当社であるという。
その後、東征された日本武尊を相殿に祀り、
和銅三年(710)、五十猛命を祀ったという。
昔(和銅三年)、熱海の海岸で漁師の網に一株のボク(木根)がかかった。
漁師は、それを海に捨てたが、何度も網にかかるボクを不思議に思い
よくよく眺めたところ、そのボクは神像のようであった。
そこで、付近の田の畔の松の木の下に置き、持っていた麦こがしを供えた。
その夜、漁師の夢に神が現れ、
「われは五十猛命である。波の音が耳ざわりなので、
西山の山地の楠の地に祠を建てて祀れ」と神託があり、
祀ったのが当社だとする伝承もある。
静岡県に幾つかの来宮神社が存在するが、祭神は杉桙別命か五十猛命。
よって、「来宮」と称する当社の主祭神は、五十猛命かもしれない。
五十猛命は、素盞鳴尊の御子神で、植樹の神。
「木宮」からの変化かもしれない。
ただし、「木宮」と称する神社の祭神は、ほとんどが木の神・久久能智命なので、
「来宮」というのは、渡来して来た神という意味が最初で、
後に、音が同じ「木宮」の意味が付加されたのかも。
あるいは、五十猛命は紀伊の神でもあるので、
「紀伊宮」と関連するのかも。
ところで、『静岡県神社誌』には当社の名が
「阿豆佐和氣命神社」と記されている。
明治までは、来宮大明神と称していたが
明治になって阿豆佐和氣命神社と改称したらしく
現在は来宮神社となっている。
つまり、明治の頃には、式内社・阿豆佐和氣命神社の論社であったようだ。
明治六年九月村社に列し、明治十年相殿の神々を合祀した。
『静岡県神社誌』によると、境内社が九社。
小童社、市杵島姫社、稲荷社、秋葉社、神武天皇社、山神社、
八坂神社、床浦社、電電社・三峯神社。
参道左手の稲荷社のそばに、いくつかの祠があった。
社域 ![]() | 鳥居 ![]() |
参道。左に稲荷社、右に第二大楠と三峯社 |
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稲荷神社 ![]() | 第二大楠と三峯社 ![]() |
境内 |
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拝殿 ![]() | 本殿 ![]() |
境内右手奥に大楠 ![]() | 左手に弁財天 ![]() |
大楠 ![]() | 本殿右手石垣 ![]() | 岩の上に弁財天 ![]() |
大楠 |
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大楠 ![]() | 第二大楠 ![]() |
来宮神社の由来
大楠の由来
大昔の大楠を御神体として、よろずの人が信仰していたもので、いわゆるひもろぎ神社で
あった。樹齢は二千年以上と謂われております。古くからそのまわりを一周廻る毎に
一年間生き延びると伝えられ、廻った人は医者いらずといい、一名不老の楠とも呼ばれ
ている。此の大楠の由来は宮地直一・加藤玄智両博士の著書にも明かである。
昭和八年二月二十八日に文部省より国定の天然記念物に指定された。願事の由来
−参道案内板− 古くから来宮大明神と称し、熱海郷の地主の神であって来宮の地に鎮座し、福の神・縁起の神として古くから信仰され祭典は、左の三柱である。 ① 大已貴命は素盞嗚命の御子であって又の名を、大国主命、俗に「ダイコク様」と云われ古代出雲の神々が海、山を渡られて伊豆地方に進出されたときに、此の熱海の里が海、山に臨み、温泉に恵まれ風光明美にして生活条件の整っていることを愛し給い此処に住居を定めた時祀られたと伝えられています。 ② 五十猛命は素盞嗚尊の御子であって、尊と共に朝鮮に渡られ、樹種を持ち帰り日本国土に播種した神であります。当社へは和銅三年六月にまつられました。 今から凡そ千三百年前和銅三年六月十五日に熱海の海へ漁夫が網をおろしていたところ、お木像らしい物が之に入ったので不思議に思っていたところ、ふとそこに童児が現れ我は五十猛命である。此の地に波の音の聞へない七本の楠の洞があるからそこへ私をまつれ、しからば村人は勿論当地へ入り来る者も守護するからと云うと同時に童児は地に伏してしまったので、村人一同で探し当てた所が、今の此の地であり、毎年六月十五日(新暦の七月十五日)になると海岸へ出て当時を偲ぶお祭を行う。(七月の例大祭。こがし祭)当時海辺で神に麦こがしを神に供えて、尚、国の天然記念物に指定されている此の大楠は、当社の御神木(ヒモロ木)であって、太古は此の楠へ神の霊をお招きして神をまつっていました。いわゆるヒモロ木神社である事は故宮地直一、加藤玄智両博士の著書にも述べられています。 ③ 日本武尊は人皇第十二代、景行天皇の御代、御東征に出陣せられ、箱根路から、此の地に軍を進められた時、住民を労り、産業を奨励した功績と、武勲を称えたゝめまつられたと伝えられる。 −『平成祭データ』− |
