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志等美神社
しとみじんじゃ
三重県伊勢市辻久留1

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式内社 伊勢國度會郡 志等美神社 |
山田上口駅から南西へ1kmほど。「上社かみのやしろ」の東隣にある。
上社の鳥居をくぐって、右手に、二つの玉垣に囲まれた社殿がある。
境内にある二つの玉垣のうち、
右手には末社・打縣神社
左手に摂社・志等美神社と大河内神社。
案内や説明がなかったので、神宮に電話して確認した。
志等美神社は、豊受大神宮の摂社で、
式内社・志等美神社に比定されている古社。
「志等美」とは「水に浸る」という意味だそうだ。
また、別名は蔀野井庭神社ともいい「井庭」は堰なのだという。
つまり、川淵にあって、宮川堤防の守護神と考えられている。
中世には廃絶し、寛文三年に再興のための調査が行われたが
社地の選定ができず、しばらく、外宮宮域内の岩戸坂に祀られていた。
その後、元禄五年、辻久留南方の山上「ヤバコ」「ハナヒシゲ山」に遷座したが、
社地に異論があり、明治十六年、辻久留の牛頭社(上社)に遷座された。
大河内神社も、豊受大神宮の摂社で、
式内社・大川内神社に比定されている古社。
社名の通り、川水の神で、宮川堤防の守護神と考えられている。
志等美神社同様、中世には廃絶し、寛文三年に再興のための調査が行われたが
社地の選定ができず、外宮宮域内の岩戸坂に、志等美神社と同地に祀られていた。
さらに志等美神社と一緒に、「ヤバコ」、現社地に遷座された。
打縣神社は、豊受大神宮の末社で、
同じく宮川堤防の守護神を祀る神社。
当社も再興されたものだが、詳細はわからない。
入口 |
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境内 |
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左:志等美神社 右:大河内神社 ![]() | 打縣神社 ![]() |
志等美神社・大河内神社 注目すべきは、崇徳天皇の大治三 年(一一二八)に大河内社・打縣社とともに神階の昇叙せら れてゐることである。神宮諸社中、神階を有するのはこの 三社に限られたことで、即ち『類聚神祇本源』に、
−『式内社調査報告』− 打縣神社宮川堤防の守護神。 − 『伊勢の神宮百二十五社めぐり巡拝地図』− |
上社も、大きな神社で、境内に末社も多い。
朝六時前だったが、宮司が境内の掃除をしていたので色々をお話をうかがった。
志等美神社等は、やはり同じ敷地にあるようなものなので、
掃除などは、上社で行っているらしい。
が、神事は豊受大神宮から神職が来ておこなうので、
各社の祭神や由緒などは、把握していないということだった。
祭神は、久々能智神、大山祇神、埴安神。
相殿に、宇迦之御魂神、天忍漁人命、誉田別尊、菅原道眞、打懸明神を祀る。
元は志等美神社が祀られていたと考えられているが
早くに廃絶し、土地の住民が産土神として祀っていたという。
また、現在本社に合祀されている、
旧境内社の山神社は大河内神社、並社は打縣神社であるとも伝えられている。
牛頭社、二俣社、八王子社などとも称されていたが、
明治三年、上社と改称した。
上社境内 |
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上社本殿 ![]() | 上社社殿 ![]() |
櫛玉宮 ![]() | 橿原神宮遥拝所 ![]() |
山ノ神 ![]() | 上天神 ![]() |
両宮遥拝所 ![]() | 上社稲荷神社 ![]() |
上社かみのやしろ 所 在 伊勢市辻久留一丁目十三番六号 主祭神 久々能智神・大山祇神ら ほかに宇迦之御魂神・菅原道真公らを合祀 山田産土神八社の一つ 例 祭 七月十五日 特殊神事 一月十五日御頭神事 宝 物 獅子頭一個 太刀一口 むかし、当社地は、外宮の摂社志等美神社・同大河 内神社・同末社打縣神社があったと考えられています。 しかし、戦国時代、久しく殿舎の造替もされず荒れ はてていたのを、このあたりの住民がこの地の神(産土 神)としてまつって今日に至りました。 その故か主祭神は右神社のご祭神と同じです。しか し当社は、古く八王子または牛頭社と称され、現に牛 頭さんと呼ばれています。 宮川堤防を守護している神も当社のご祭神です。 −『境内案内』より− 当社地は住古豊受大神宮の摂社志等美(しとみ)神社、大河内(おおかうち)神社、末社打懸(うちかけ)神社が鎮座していた所であるが、戦国時代に久しく殿社の造営もなく、廃退ていた所を、後世に至って付近の住民が、その跡にの産土神として崇めたものらしい久々能智神、大山祇神、埴安神、宇迦之御魂神を奉祀せりと伝えられています。古記に、境内社並社は打懸神社の旧地で、同明神を奉祀し、山神社は大河内神社の旧地で大山祗神を奉祀したとあるから、恐らく当社地は往古の志等美神社の旧跡であろうと思われている。 尚、現在、外宮摂社志等美神社以下三社は当社に隣接して鎮座している。 社号に関しては、永正十六年(一五一九)九月の畠券には「二俣社」、大永六年(一五二六)十二月の田券には「二俣八王子社」、天文六年(一五三七)十一月の畠券には「牛頭社」と称している。 そして、明治三年十月に「上ノ社」と改称し、今日に至っている。 また、合祀に関しては、明治四二年三月七日に、浦口町字堤世古鎮座の稲荷社(宇迦之御魂神)、同町字堤世古五軒家鎮座の土井稲荷社(同)、同町字山名鎮座の大杉稲荷(同)、二俣町字田原鎮座の田村社(神名不詳)、同町字会所世古鎮座の二俣菅原社(菅原道真)を、同八日には、境内社稲荷社(宇迦之御魂神)、同山神社(大山祗神)、中島町字小川町鎮座の浅間社(神名不詳)、同町字京町鎮座の八幡社(誉田別尊)、同町字中島鎮座の掃守社(天忍漁人命)、同町字風呂屋ノ世古鎮座の小川社(神名不詳)をそれぞれ境内社並社に合祀し、さらに同十二日並社を本社に合祀している。 また、戦後は、昭和五四年七月十一日に徳川山鎮座の山神(神名不詳)を合祀し、昭和五九年二月に上天神を、同九月に櫛玉宮を境内に奉祀している。 −『平成祭データ』− |
